birdiswitch’s diary

読んだ本を個人的に記録するためのもの

これが現象学だ

現象学」って何なんだろう、と最初におもったのは『センスメイキング』を読んだときでした。

 

センスメイキングでは、人工知能ビッグデータ"だけ"でイノベーションは起こせない。人にとっての「意味」はすべてものごとのつながり、文脈のなかにあり、それを見いだす能力は「文化の理解」にこそあるんだ、という主張でした。(自分の理解)

 

そうした文化・文脈理解の達人達のエピソードがいくつも語られている中で、そうした着想、ものの見方のフレームワークとして「現象学」なる哲学がある、と紹介されます。

 

 

'例えばグラス一杯のワインとは、いったい何だろうか。フッサールによれば、我々の感覚的経験に対してワインがどのような姿を呈しているか記述しなければならない。・・・フッサールの講義では、日々の生活の中のあらゆる経験(例えば、コンチェルト、雷鳴、不健康)を記述する事が指導されただが、この記述という作業を行き当たりばったりに行ったわけではなかった。対象から抽象的な理論や習慣的に用いられる装置を取り払う事に徹底的に取組んだのだ。'

 

 

ただ、『センスメイキング』の中では、現象学がどんな学問でどういう考え方をする物かの記述はあっても、そもそもの実践方法までは読み解けませんでした。(自分の読解のなかでは)

 

 

現象学とはどんな思想のものか、そこを突っ込む前にそもそも哲学ってどんな考え方の歴史があるのか全体像をみるために読んだのが『武器になる哲学』。

 

 

このなかの第4章「思考」に関するキーコンセプト の中で、エドムント・フッサールの「エポケー」という考えが紹介されています。

 

 

'このとき、エポケーとは、先述した「Aを原因として、Bという結果がある」という考え方を「一旦、止める」という点に該当します。簡単に言えば、エポケーとは、「客観的実在をもとに主観的認識が生まれる」という客体→主体の論理構造に「本当にそれで正しいのか」という疑いを差し向けるということ、確かにそのように思えるけれども、一旦それはかっこに入れておこう、ということです。これで、単なる判断留保とエポケーの違いを理解していただけたでしょうか。'

 

 

『これが現象学だ』

 

まだ読み終えていませんが、現象学のものの見方についての解説がありました。

 

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この「突破する」という見方が、同じ物を見たり経験した人がそれぞれに受け止め方が違っていたり、文化によって意味が違ったりすることと直にリンクしていて、すごいなと思いました。

 

 

他人との受け止め方のギャップだったり、文化の違いだったりを認識するのって、その事柄がおきた直後リアルタイムに必ずしも気づけるかというとそうではないと思います(個人差ありますが)

 

 

この見方って本当にフレームワークで、事が起きた瞬間に「他の人にはどうとらえられているんだろう」と思いを馳せるようになった気がします。

 

 

フッサール自身はそういった他所の見方を知る為に編み出したわけではなくて、もっと学問的な動機のもとにやっていたようですが、この見方を知る事は確かに有益。と思いました。

 

 

 

 

検証 アメリカ500年の物語

この本は大変読みやすい、です。

 

読みやすいと言っても子供にもわかる易しい表現という意味ではなく、重厚な歴史の中で当時の世界情勢とのつながりや、その後の歴史の大きな流れにつながる重要な転換点を巧みに選んでダイジェストにしている、そんな印象です。

 

一つ一つのエピソードは具体的で当時の様相、考え方がよくわかります。

 

まず最初に語られるのは、大陸の発見から植民地時代を経て、建国までの流れ。

 

自ら移民として、入植地に赴いた人々が、独立へと向かう動機は何だったのか。元は同じヨーロッパ人に対して、本国イギリスからの重い税負担と自由・権利の侵害。

 

当時、民主主義からなる共和制の国づくりを行うという建国そのものが社会的実験だった、と記されています。

 

 

 

 

武器になる哲学 第2章 「組織」に関するコンセプト

本日は第2章です。紹介されたのは以下の10のコンセプト。

 

 

 

15 マキャベリズム -非道徳的な行為も許される。ただし、より良い統治のためになら

ニコロ・マキャベリ

 

16 悪魔の代弁者 -あえて「難癖をつける人」の重要性

ジョン・スチュアート・ミル

 

17 ゲマインシャフトゲゼルシャフト -かつての日本企業は「村落共同体」だった

フェルディナンド・テンニース

 

18 解凍=混乱=再凍結 -変革は「慣れ親しんだ過去を終わらせる」ことで始まる

クルト・レヴィン

 

19 カリスマ -支配を正当化する三つの要素「歴史的正当性」「カリスマ性」「合法性」

マックス・ウェーバー

 

20 他者の顔 -「わかりあえない人」こそが、学び舎気づきを与えてくれる

エマニュエル・レヴィナス

 

21 マタイ効果 -「おおよそ、持っている人は与えられていて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるだろう」

ロバート・キング・マートン

 

22 ナッシュ均衡 -「いいやつだけど、売られた喧嘩は買う」という最強の戦略

ジャン・ナッシュ

 

23 権力格差 -上司は、自分に対する反対意見を積極的に探せ

ヘールト・ホフステード

 

24 反脆弱性 -「工務店の大工さん」と「大手ゼネコンの総合職」はどちらが生きのびるか?

ナンシーム・ニコラス・タレブ

 

 

本書自体が要約にも至らない、一エッセンスのつまみ食い的な紹介であっても、やはり一読しただけでは、身にしみないですね。

 

こうして目次を読み返しても主旨を忘れているものが。。

 

個人的に興味深かったのは、悪魔の代弁者、解凍=混乱=再凍結、カリスマ、他者の顔、あたりです。

 

 エピソードとして、一番、印象に残ったものをご紹介します。

 

 

16 悪魔の代弁者 -あえて「難癖をつける人」の重要性

ジョン・スチュアート・ミル

 

"悪魔の代弁者とは、多数派に対して、あえて批判や反論をする人のことです。"

 

”ここでいう「あえて」とはつまり、もとより性格が天邪鬼で多数派の意見に反対する人ということではなく、そのような「役割」を意識的に負うという意味です。”

 

とある判断の局面で、「本当にそれで良いのか?」という批判的に内省を繰り返す態度を取れると、重大な局面でこそ判断を誤らず、破滅を回避できる、そういう能力だと思います。

 

楽観的でいたっていいじゃん、そういう生き方もあるでしょ。何て考えている人は災害発生時や人生の重大局面で取り返しのつかないい判断ミスを犯したり、してしまうものです。。将来、とてつもない業を負うリスクがある、とも言えます。

 

この"意図的に"悪魔の代弁者になれる、というところがとても肝な気がしました。

 

「ここが重大な判断局面だ。安易に判断してはいけない」そういう心のアラームはどうやってかけていくものでしょう。

 

 

ジョン・スチュアート・ミルの主張は、そうした個人の人生に置ける話ではなくて、健全な社会には「反論の自由」が必要だ、という主張だったようです。

 

"自分の意見に反芻・反証する自由を完全に認めてあげることこそ、自分の意見が、自分の行動を指針として正しいと言えるための絶対的な条件なのである。全知全能でない人間は、これ以外のことからは、自分が正しいと言える合理的な保証を得ることができない。  ミル『自由論』"

 

何が正しくて、何が誤っているか。ある時代における『悪」は別な時代で『善』になる事実は繰り返し起きている。長い時間をかけて多くの人々がいろんな角度で考察された結果で是非が決まるものだ、と。

 

だからその時代のエリートが「反論の自由」を奪い、エリートが結論づけるようなことがあってはならない。

 

この説が面白かったのはキューバ危機におけるケネディ大統領の事例が紹介されていたからです。

 

今にもキューバから核攻撃が仕掛けられるかもしれない、それほど事態は緊迫していたそうです。

 

そんな中、大統領は自らは対策会議に参加せず、あらゆる方面の専門家を緊急招集した上で、自分の最も信頼の置ける人物に悪魔の代弁者として、あらゆる提案の弱点とリスクを徹底的に突きつけるよう指示した、そうです。

 

当初はキューバを先制攻撃するしか選択肢はなかったところに、海上封鎖による隔離案が出され、双方のリスクの徹底議論の結果をそれぞれ大統領に報告。海上封鎖案が最終的に選択された、という経緯。

 

議論の流れは当初から先制攻撃が非常に有力、強力だったようで済んでのところで止まりつつう、最終的に攻撃回避できたのは、「悪魔の代弁者」を議論に投入できたから。

 

この緊急時にその判断ができた資質に感服。

 

反論の自由を認めた社会、というよりはリーダーに求められる批判的資質、状況判断の態度、といったところかもしれませんが、そうあるための示唆が『自由論』にもあるようです。

 

"その人の判断が本当に信頼できる場合、その人はどうやってそのようになれたのだろうか。それは、自分お意見や行動に対する批判を、常に虚心に受け止めてきたからである。どんな反対意見にも耳を傾け、正しいと思われる部分はできるだけ受け入れ、誤っている部分についてはどこが過まりなのかを自分でも考え、できれば他に人にも説明することを習慣としてきたからである。"

 

 

 

 

 

 

 

 

 

武器になる哲学 第1章 「人」に関するコンセプト

「人」に関するキーコンセプトは14紹介されています。

 

01 ロゴス・エトス・パトス -論理だけでは人は動かない
アリストテレス

02 予定説 -努力すれば報われる、などと神様は言っていない
ジャン・カルヴァン

03 タブラ・ラサ -「生まれつき」などない、経験次第で人はどのようにでもなれる
ジョン・ロック

04 ルサンチマン -あなたの「やっかみ」は私のビジネスチャンス
フリードリッヒ・ニーチェ

05 ペルソナ -私たちは皆「仮面」を被って生きている
カール・グスタフユング

06 自由からの逃走 -自由とは、耐え難い孤独と痛烈な責任を伴うもの
エーリッヒ・フロム

07 報酬 -人は、不確実なものにほどハマりやすい
バラス・スキナー

08 アンガージュマン -人生を「芸術作品」のように創造せよ
ジャン・ポール・サルトル

09 悪の陳腐さ -悪事は、思考停止した「凡人」によってなされる
ハンナ・アーレント

10 自己実現的人間 -自己実現を成し遂げた人は、実は「人脈」が広くない
エイブラハム・マズロー

11 認知的不協和 -人は、自分の行動を合理化するために、意識を変化させる生き物
レオン・フェスティンガー

12 権威への服従 -人が集団で何かをやるときには、個人の良心は働きにくくなる
スタンレー・ミルグラム

13 フロー -人が能力を最大限に発揮し、充足感を覚えるのはどんな時か?
ミハイ・チクセントミハイ

14予告された報酬 -「予告された」報酬は、創造的な問題解決能力を著しく毀損する
エドワード・デシ

 

 

報酬、認知的不協和など、学生時代に学んだことのある内容も幾つか含まれていました。学生の頃もこの辺の講義は面白かったしレポートも真面目に取り組んだ記憶がありますね。

 

個人的に特に印象に残ったのは、予定説、ルサンチマン、悪の陳腐さ、ロゴス・エトス・パトス、です。

 

自由からの逃走、アンガージュマン、は大事な気づきがあるなと感じつつ、人に説明できるほどには理解に至らなかった。要復習の2つ。

 

ここではまず3つに絞って、感想をまとめたいと思います。

 

 

 

02 予定説 -努力すれば報われる、などと神様は言っていない
ジャン・カルヴァン

 

宗教改革で習ったカルヴァン。お金で罪を贖罪できる免罪符がおかしい、のはとてもわかりやすい主張です。それどころか、「現世で良い行いをしようが悪い行いをしようが、どんな努力をしたかなんてそんなものは関係ない。天国に行ける人は予め決まっている」という考えを唱えていたそうです。

 

そんなん言ったら、みんな無気力になっちゃうのでは?と感じました。努力した分だけ報われるという考え(仏教の因果律)の方がしっくりきます。

 

けど実際はこの予定説が生き残り、人々に支持され、民主主義や資本主義のもとになっていった、というから驚きました。

 

予定説の世界では、誰が救済の対象になっているか、知る術はないそうです。自分が救済の対象かどうかわからない中で、「神に選ばれた救済対象の人間が不道徳な行いをするわけがない。倫理的に真っ当に生きている自分こそが救済の対象にちがいない。」そう考える人が多かったそうです。

 

結果的に、世の中の倫理観が高まり勤勉な職業家が増えたことで資本主義の基礎となった。そう言われるとわかるような、納得できないような不思議なコンセプトです。

 

マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』にこの点が詳しく論理展開されているそうなので、気力のあるときに読んでみたいと思います。

 

 

 

09 悪の陳腐さ -悪事は、思考停止した「凡人」によってなされる
ハンナ・アーレント

 

 ナチスドイツによるユダヤ人虐殺は600万人の被害者がいました。人が人を処刑する、という瞬間を現実として捉えると、処刑をする側にも心理的な負担がかかるもので、現在の死刑執行でも一人の人間に「自分が殺した」という負担を背負わせない仕組みがされる話を聞きます。

 

アドルフ・アインヒマンは虐殺計画の一連のプロセスを考案、運営しました。彼の計画の巧妙で恐ろしいところは、当事者はただただ流れ作業のように役割を果たせば、「人を殺す」という心理的な負担を感じることなく、結果、誰のせいともなく、大量の人が殺害される、という点でした。

 

ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』に、実際にその選別の過程に遭った体験が綴られています。

 

ユダヤ人の収集、移送、判別は、一つ一つのプロセスの意味を感じさせないほどに細かく細分化されていました。ユダヤ人を集め名簿を作成し収容所へ送る過程でも、集合場所に連行する、名前を聞き出す、男女に仕分けする、健常者を抽出する、所持品を集める、一人一人に番号を割りあてる、列車に乗せる、ある目的地に移送する、、、などなど一つの行為の意味を薄れさせています。

 

もし、ある番号帯が割り当たったら死が確定する、とわかっていたら、番号付けを行う人物は負担を感じてしまい、任務に背くこともあるかもしれない。健常者の判別でも目的地への移送でも、本当は死の決定につながっている局面でもそれを感じさせず「自分はただ決められた作業をしていただけ」というシステムを作り上げました。

 

こういうシステムに組み込まれると、人間はひたすら従順に悪事に加担することになる、という警鐘を発したのが著者のハンナ・アーレントで、アインヒマンが戦後、拘束され裁判にかかる模様を傍聴し、そのメカニズムを検証した人物です。

 

"連行されたアインヒマンの風貌を見て関係者は大きなショックを受けたらしい。それは彼があまりにも「普通に人だったからです。」

 

"「ナチス親衛隊の中佐でユダヤ人虐殺計画を指揮したトップ」というプロファイルから「冷徹で屈強なゲルマン戦士」を想像していたらしいのですが、実際の彼は小柄で気の弱そうな、ごく普通の人物だったからです"

 

"アーレントがここ(「悪の陳腐さ」という言い回し)で意図しているのは、我々が「悪」について持つ、「普通ではない、何か特別なもの」という認識に対する揺さぶりです。"

 

"アインヒマンが、ユダヤ民族に対する憎悪やヨーロッパ大陸に対する攻撃心といったものではなく、ただ純粋にナチス党で出世するために、与えられた任務を一生懸命にこなそうとして。この恐るべき犯罪を犯すに至った経緯を傍聴し、最終的にこのようにまとめます"

 

 

"「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」と。"

 

 

"通常、「悪」というのはそれを意図する主体によって能動的になされるものだと考えられていますが、アーレントはむしろ、それを意図することなく受動的になされることにこそ「悪」の本質があるのかもしれない、と指摘しているわけです"

 

日々の生活の中で、世の中の風潮、論調に安易に順ずることが大きな悪事そのものを生み出すとしたら、自分たちの個人の意思に大きな責任が伴っていることを自覚して生きていく必要がある、そう思いました。

 

 

 

武器になる哲学 なぜ哲学を学ぶべきか

現象学』なる哲学が世の中の本質を知る武器になる。そう『センスメイキング』には語られていたけど、肝心の現象学がどんな考え方でどう実践すべきものかは多く語られず、消化不良。

 

現象学の専門書のAmazonレビューを覗き見しても、フッサールの著書をいきなり読み始めるにはかなり難読な印象。それ以前の哲学の研究成果を知らないとこれまた消化不良になりそうです。

 

手始めには簡単に哲学史全体を眺めながらそれぞれの考え方の特徴をかいつまんでみてみたい。そう思って手にしたのが本書でした。

 

著者はボスコンやP&Gにもいた元コンサルタントの方で、哲学の専門家ではない立場から、ビジネスパーソンに役立つ哲学を紹介する、というコンセプトです。とっつきやすそうです。

 

今回は、巻頭にあるビジネスパーソンが哲学を学ぶ4つの意味をご紹介します。

 

その1 状況を正確に洞察できるようになる

その2 批判的思考のツボを押さえられる

その3 課題を設定できる

その4 過去の悲劇を繰り返さない

 

その1 状況を正確に洞察できるようになる

 

過去の哲学者が向き合ってきた問いは「世界はどのように成り立っているのか」という「Whatの問い」と「その中で私たちはどのように生きるべきなのか」という「Howの問い」の二つ、に整理されるそうです。

 

古代ギリシャの時代から今日まで、ずっとこの問いを考え続け、今でもまだ万能の答えには至らない状況です。これはその時代時代にあった新しい社会が現れるに連れ、過去の答えが通用しなくなり、新しい概念がその度に考え出されてきた哲学の歴史そのものと考えられれます。

 

現在を生きる私にとって、今目の前に起きている問題は、この時代特有の側面も持ちながら過去の歴史を繰り返したり極めて近似したものであったりもしています。

 

"目の前で起こっていることが、一体どのような運動なのか、これから何が起きの課をより深く理解するために、過去の哲学者が提案した様々な枠組みやコンセプトが、その一助になります。"

 

"「今、何が起きているのか、これから何が起きるのか」という問いは、ビジネスパーソンが向きあわなければならない問いの中でも最重要なものでしょう。このような重要な問いについて考察する際の、強力なツールやコンセプトの数々を与えてくれるのが哲学だということになります。"

 

その2 批判的思考のツボを押さえられる

 

ビジネス環境は常に変化します。そんな当たり前のことがなぜ難しいかというと、変化には必ず「現状の否定」が伴うから、です。難しいのは新しい考え方、やり方を始めることではなく、現状の何かを批判し終わらせること、だと。

 

筆者のこの指摘には少なからず頷いてしまいました。何を終わらすか、という視点で物事をフォーカスすることがあまりできていない気がします。つまり、批判的な思考に慣れていない、ということです。

 

"「自分たちの行動や判断を無意識のうちに規定している暗黙の前提」に対して、意識的に批判・考察してみる知的態度や切り口を得ることができる、というのも哲学を学ぶメリットの一つ"

 

 

その3 課題を設定できる

 

"イノベーションの停滞が叫ばれて久しいですが、停滞の最大の原因になっているボトルネックは「アイデア」や「創造性」ではない、そもそも解きたい「課題=アジェンダ」がないということです。"

 

"イノベーションは、常に「これまで当たり前だったことが当たり前でなくなる」という側面を含んでいます。""一方で全ての当たり前を疑っていたら日常生活は成り立ちません。"

 

哲学という教養が、"普遍性がより低い常識、つまり、「今ここでだけ通用している常識」を浮かび上がらせる"レンズになる。

 

 

その4 過去の悲劇を繰り返さない

 

 過去の惨劇は私たち「普通の人々」によって引き起こされている。哲学はまた過去の惨劇がなぜ起きてしまったのか、私たちのどんな振る舞い、考え方がそれを招いたのか、明らかにしています。

 

そして今の世の中を動かしているのは哲学者ではなく、ビジネスパーソンです。だからこそ、ビジネスパーソンが哲学を知り過去の過ちを繰り返さないこと、それが重要なのです。

 

 

以上が、今、哲学を学ぶメリットとして紹介されています。

 

 

さらに本書がユニークなのは、一般の哲学ガイドが哲学史の順を追ってその時代時代の考え方を紹介していくの通例なのを、「これはビジネスの実践で役に立つ」と筆者が感じた50のコンセプトを、独断で以下の4カテゴリに分け順に解説している点です。

 

第1章 「人」に関するコンセプト

第2章 「組織」に関するコンセプト

第3章 「社会」に関するコンセプト

第4章 「思考」に関するコンセプト

 

次回、はこれら50のコンセプトのうち読み進めたいくつかをまとめていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うさぎとニンジンを足したらどうなる?

ウサギが2ひきいました。ニンジンが3ぼんありました。あわせていくつになりますか。 

私の長男も1年生で、初めて学習する計算が足し算です。この『こどもと一緒にたのしくさんすう』という本では、教員である著者が、初めてさんすうに触れるこどもたちが直面する戸惑いを具体的に教えてくれます。

 

私たち大人からするとすっかり当たり前になっている概念が、まだ、頭の中にない子供達にとって、初めて出会った時にどう受け止めるのか、どんな紆余曲折をえて、正しい概念を納得していくのか、その気づきにいたる流れを実際の授業でのやり取りに見立てたライブ感の中で紹介しています。

 

冒頭の 例題、大人だと2+3=5、かな、と考えますよね?けど、ちょっと違和感があると思います。ウサギ2『ひき』とニンジン3『ほん』と単位が違ってます。これって足していんだっけ?という疑問です。

 

2ひき+3ほん=5

2ひき+3ほん=5つ

2ひき+3つ=5ひき

2ひき+3ほん=5ひきほん

2つ+3つ=5つ

 

授業では上の5つが子供たちから出てきた考えでした。大人の私としては最後の2つ+3つ=5つ があってる気がします。単位が揃っていますので。

 

子供達はどれが良い、あってる、どれも変、と言い合っているうちに「足し算はできないよ、ウサギがニンジンを食べちゃうから」と言う子が出てきます。結果、これは足し算ができない。足し算は単位が同じもの同士を合わせるもの、という考え方をまず学ぶ、のだそうです。

 

自分の子供にも、まず「単位」という概念をどうやって伝えていったらいいんだろう?と感じることがありましたが、小学校ってそういう当たり前の概念、感覚を皆んなで一緒に学んでいける、素晴らしい場所なんだな、と感じました。

 

ドリルとか問題を解くのではなくて、こうした新しい概念との出会いと習得こそ学びであり、仲間と一緒にああでもないこうでもないと学んでいくのが「学校」ですね。

 

 

センスメイキングできるようになりたい

今回の本 『SENSEMAKING 本当に重要なものを見極める力』

 著者のクリスチャン・マスビアウは人工知能機械学習偏重の現在の風潮をこう評しています。

 

最近は、アマゾンやグーグルをはじめ、数え切れないほどのアプリやベンチャー企業がビックデータを活用している話題で持ちきりだ。 

マーク・ザッカーバーグが、人々のビックデータ中毒を見逃すはずもなく、先ごろ投資家向けに、フェイスブック機械学習を活用し、「世界のありとあらゆる事象を網羅する決定的なモデル」を構築すると語っている 。

彼らに言わせれば、文学や歴史、哲学、芸術、心理学、人類学といった文化を探求する人文科学は、もはや「社会的要請」に応えられないというわけだ。様々な国民性やそれぞれの世界を自分科学的見地から理解する行為に対して、役立たずの烙印が公式に押されたのだ。 

こうした風潮の中で、筆者は読者にどうしても届けたいメッセージがあり、いてもたってもいられない思いでペンをとった。それは、文化的知識の価値は間違いなくあるということだ。 

 

丸善でこのフレーズを目にして、それはあるかも、と思いました。

 

私は普段デジタルマーケティングの仕事にも携わります。ヒトの感情変化をデータからとらえるんだ!とか統計モデルも扱ったりします。

 

でも、人の感情変化を"ログ"だけで捉えるのって、どうしても不完全です。データの背景をどう読み解いてどう意味づけするか、使い手の意識こそすごく重要なんじゃないか!?、という疑問にこのフレーズがすごくぴったりきたんですよね。

 

自然科学 x 人文科学で、世の中の新しい見方が見つかったらすごく素敵です。そのヒントになりそうだなと思った箇所を幾つか紹介していきたいと思います。

 

シリコンバレー的であること

この本の第二章はシリコンバレーという心理状態というタイトルです。シリコンバレーから発せられるものを批判的に捉えること自体、なんか新鮮に感じます。

 

が、「自然科学」vs「人文科学」の視点で見たときに、シリコンバレー的な考え方(著者はシリコンバレーで重宝される特有の発想法をこう呼んでいます)にも、おかしなというか、ある意味滑稽さにも通じる要素を感じました。

 

 

言葉こそ違うが、根底にある考え方は同じだ。「何ごとも」技術が解決してくれるということである。そして、その解決策は必ずや革命的なものになるという。

「・・・コツコツと積み重ねられてきた小さな改良を足がかりに、・・・少しずつコツコツと改良を重ねていく」などと宣言してベンチャー企業を起業する者はシリコンバレーでは皆無である。過去とはきれいさっぱり縁を切り、未来へと一気にジャンプしようとする破壊的な創造を掲げているのだ。 

シリコンバレーのテクノロジーが、世界にイノベーションを引き起こしたのは周知の事実です。私たちは世の中が一変していくのを目の当たりにしました。

 

だから、シリコンバレーの彼らが語るこれからのテクノロジー、データとAIで次々と世界が劇的に変わっていく、そんな予言もそうに違いない、とすんなり受け止めてしまってた気がします。

 

勝手な憶測ですが、著者は彼らシリコンバレーのリーダー達と実際に会って感じた違和感が半端なかった、のかなと感じました。本当にテクノロジーだけに優れていて、教養が全く感じられないリーダーたち。そういう人がもてはやされて資金と権力が集中してしまう米国の現実に警鐘を鳴らしたい。そんな思いを感じます。

 

他にも、"ビックデータ教"と揶揄した風潮も評されています。

 

ビックデータは人間の偏見を取り除き、その数自体が何よりの証拠になり、理論など不要というわけだ。

同記事によれば「真実を見極めるうえで、モデルや仮説を元に体系を説明する過去のやり方は、的外れで荒削りの推量になりつつある。」

こうしたビックデータ信奉を掲げたコサンルタント達も随分大勢米国内に出回っているようです。

 

 ビックデータがあれば、国民全体に関して何かわかることがあっても、人間一人ひとりに関することは少しも見えてこない。

白鳥といえども、赤い光を浴びれば赤く見える。この白鳥の本当の色を理解するには、光の特性を理解している必要がある。言い換えれば、事実は常に文脈の中に存在するのであって、そうした事実を個別のデータポイントに切り刻んでしまっては、無意味で不完全なものになるだけだ。

そこまで端的にデータ変重に偏ったコンサルタントが持てはやされるという事自体、日本の商習慣では想定しづらいかな、、と思いつつ、実際、モデル構築の案件をしてたりすると、データで全て解決できるようになると本気で期待しているような人もいたりします。

 

ま、それ自体はどっちでも良い話です。

 

こうしたシリコンバレー流の誤った想定に対して、筆者が提示する是正策がセンスメイキングである。途方もないくらいのコンピュータ処理能力を自在に使える時代になったとはいえ、腰を据えて問題に向き合い、苦悩し、先人らがコツコツと丹念に取り組んできた観察の成果に助けを借りながら、答えを見つけ出そうと努力する事を我々人間は避けて通れない。

本書では、そのためのロードマップを披露していきたい。

 

ぜひ、お伺いしたいです!という第二章でした。

 

 

 フォード高級車リンカーンでのセンスメイキング

後日更新。