birdiswitch’s diary

読んだ本を個人的に記録するためのもの

武器としての決断思考

自分の頭の中で、XXをすべきか否かという命題をたて、それぞれのメリデメをあげ反論を重ねてよりよい結論を出す。

 

 

 

そして、みずから進むべき道を決断する。

 

 

 

 

まさに、自分に欠け落ちてしまった思考のこと、だった。

 

 

 

初めて出会った考え、というものではないが本書で示された思考法を日常の内で積み重ね、決断という行為自体を習慣化したい。

 

 

 

 

そう思った一冊でした。

 

台湾物語

同じ国、同じ家に住む家族なのに、親子で話す言語が異なる。

 

 

 

学校で習う歴史も地理も、道徳観念も違う。

親のころに良しとされたものが、子の代には全く逆の考えで否定される。

 

 

 

でも、お互いにとっては、自分が教わった世界観・価値観が普通であって、親と子が言葉も価値観も、心も分かり合えない、そういう切ない環境が、外部に強制されたはての境遇として現実にある。

 

 

 

これは、知らなかった。

 

 

 

東日本大震災での寄付の話が親日のイメージを強くさせていたが、歴史を知れば、そんなシンプルな感情で語れないものと理解できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己欺瞞の「箱」

自分の小さな「箱」から脱出する方法

Leadership and self-deception getting out of the box

 

 

Think Clealyを読み進めるうちに、どの章だったか忘れてしまったのだが、『自己欺瞞』という言葉があって、「これだ。」という直感がありました。

 

 

 

自分の行動や考えを正当化するために、相手の言動を不当なものと貶めて、だから自分は悪くないんだ、相手が悪いんだという主張にひたる行為。まさに自分のことです。

 

 

 

 

自己欺瞞」をキーワードにブックレビューを検索してみて、ひっかかったのがこちらの書籍です。

 

 

 

たとえば、夜中にまだ0歳の息子が泣き始めた時、「自分が起き上がって、子供をあやしてあげた方が妻も休めて良いだろうな。」という考えが頭に浮かぶ。

 

 

 

だけど、実際には起き上がれず、子供は泣いたまま、自分は寝たまま。妻も寝たまま。

 

 

 

この「XXXした方がよいだろうな」という自分の感情を裏切る行為をした時が「自己欺瞞」の入り口です。

 

 

 

本当はやった方がよい、と感じたことに自分が背いたときに、その行為を正当化する理由付けが自分の頭の中で始まります。「いつもは起きてあやしているが、毎回できるわけではない。そのことが責められるべきではない」とか、「妻だって気づいているはずなのに何もいわないのは感じが悪い」など。

 

 

 

ただ、実際のところ、この例でも妻は何もしていない。何もしていないのに、一方的に責められ始めている。

 

 

 

人間は、自分が責められているということに敏感に察知する生き物なので、何もなかったはずのところから本当に二人の関係が悪化し始める。

 

 

 

すべては自分の感情に背くこと、から始まり、そこから自分を正当化する思考がどんどん重なり、やがてその思考に囚われつづける『箱』に入ってしまう。

 

 

 

この「箱」の概念が、実生活でとても活用しやすい。

 

 

 

どんな時でも、どんな場面でも自分が「箱」に入っているか、その一点を意識すれば、自己正当化の思考から離れられる、強力なツールです。

 

 

 

この「箱」の概念と、「感情の鳥たち」(Think Clearly 11章)をイメージしておけば、一時の感情に流されることもなく、客観的に会話に参加できると実感しました。

 

 

 

やはり、読書がもたらす知恵は本当に大事だと実感した次第です。

 

 

 

 

 

自分の感情に従えば、幸せは台無しになり Think clealy

本書は52の思考法が紹介されている。どれも大変に役立つものばかりだが、1回目の読書のなかでもっとも心に残ったのはこの二つ。

 

 

幸せを台無しにするような要因を取り除こう

問題を避けて手に入れる豊かさ

 

 

結論。よい人生は、究極の幸せを求めた結果として得られるものではない。馬鹿げたことや愚かな行為を避け、時代の風潮に流されなければ、人生はおのずとうまくいく

 

 

 

「何を手に入れたか」で人生の豊かさが決まるわけではない。「何を避けるか」が大事なのだ。

 

 

 

何があれば幸せになるか、何千年も考えてきて一向に具体的に定まらないが、何が人生を不幸にしうるかはいくらでも具体的にある。これらが「ダウンサイド」であり、具体的に判別できるもの。

 

 

 

アルコール依存、麻薬、慢性的なストレス、不安定な結婚生活、自分への過度の期待、孤独、被害者意識、怒りや嫉妬。

 

 

なんだかずっと自分を捉えてきたものばかりだ。

 

 

 

自分の感情にしたがうのはやめよう

|自分の気持ちから距離を置く方法

 

 

自分の感情を分析してみても、良い人生にはつながらない。

 

 

そうなんだ。自分の感情とは、自分の人格の構成要素であって、しかも、わりと主役な要素だと思っていました。

 

 

「なぜそう感じたのか?」「本当はどう感じて、どう考えていたのか?」そうやって掘り下げて考えていくことが、自分自身を知ることだと。

 

 

感情から距離をとれ、という。感情をコントロールしなくてよいの?

 

 

自分の感情なんて不確かでとらえようのないもの。他人の感情は読み取ることができる。

 

 

「感情」は飛んできては去っていく鳥のようなもの。

 

 

この考え方はすごい。感情をありとあらゆる種類の鳥に置き換えて、飛んできては去っていく、開け放しの広場ととらえる。いろいろな鳥たちがやってきて、とどまるものもあればとびまわるものもあり、やがてはみないなくなる。

 

 

このイメージをまねてみると、自分の感情が自分とは切り離して感じられるようになる。

 

 

自分がどう感じているのか、リアルタイムに客観的に感じられるようになる。こういう経験は今までの自分にはなかった。そうありたいと思っていても、一つの感情に振り回されていた。

 

 

色々な感情を取りに例えて、やがてすぐにいなくなるもの、と感じていると、感情そのものではなく、どうしてそのような感情を抱いているのか、そっちに考えが向くようになる。

 

 

同じように「周りの人の感情」も鳥に置き換えて、あの人の前にはこんな鳥がいるな、今はこの鳥に変わったな、ととらえると、言われている言葉やその裏にある感情に囚われず、どうしてそのような感情を持つに至ったか、どのように受け止めるべきか、すごく落ち着いて、相手の立場に立って考えることができる。

 

 

 

これこそが自分が長年、できないできないと嘆いていたことの一つであった。

 

 

 

このような実践方法を教えてくれた良書に出会えて、本当によかった。

 

 

 

 

カンディードまたは最善説

楽観主義の主人公のストーリーと聞いて、事前に想像していた主人公の思考性と実際に読んだところとは、何かイメージと違うものがありました。

 

 

この違和感の正体はなんだったのか?

 

 

まず、想定していた楽観主義は、物事をはじめる前に「きっとうまく行く」と考え無しに始めてしまう、その点をクローズアップして想定していました。

 

 

実際に読み進めてみると、本書の最善説は「物事の目的が一つであるなら、それは最善のためである。そのため、現在の物事のありようは全て最善の状態にある」という考えと読めました。

 

 

これから起こることという観点よりも起きたことへの捉え方、であり、最初そこが少しひっかかりになっていました。

 

 

でも、「きっとうまく行く」となんでもとらえることと、「起きてしまったことは全て最善である」という考え方は実は同じなのか?という考えが出てきました。

 

 

どちらの考えにおいても、自然のもたらす害悪、道徳(=人のふるまい)がもたらす害悪を直視せず、無視しています。

 

 

なぜその害悪は起きたのか?どうすればその害悪は取り除けるのか?そういった思考を放棄しています。

 

 

害悪の直視の方向が起きたことに向くか、これから起こることに向くかの違いはあれど、世の中の物事のありように帯するスタンスは実は同じではないかと。

 

 

カンディードを読んだとき、例えば、彼が人にだまされ人身売買のめにあっても「これは最善のできごとである」と考える様は一見、自分の考える楽観主義とは異なるように思われました。

 

 

でも、これから起こることを楽観的に考えることは、実は既に起きたことを無理矢理に最善のことと結びつけて考えることと、害悪の発生メカニズムを無視している、という点で全く同じなのでは?という気がしました。

 

 

 

これから起こることを楽観的に捉えることは良くって、起きたことを楽観的に捉えるのは良くないこと、という区分が成り立つと感じていた自分は、大きな勘違いでした。

 

 

カンディードでは最後に、最善説を捨て「自分の田園を耕す」ことが人生の幸福と悟ります。

 

 

「自分の田園」が自分にとって何をさすのか、それを自覚し行動する人だけが幸福になれる、そういうことかと思いました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

怒りのスイッチ

『アンガーマネジメント入門』(日本アンガーマネジメント協会代表安藤俊介著)をざっと読みました。

 

 

怒りの感情は反射的で抑制できない、と思いがちです。

 

 

読んで一番収穫だったのは、すごく腹立たしい事象が起きる→激高する、の間には、「怒るべきかどうか」を認識するプロセスが必ずある、この部分でした。

 

 

人が怒るのは、その人が怒りたいと思っているからだ、とはアドラー心理学を解説した『嫌われる勇気』にもありました。

 

 

『人を動かす』(D.カーネギー)にも、人は論理ではなく感情で動くこと、そして、怒りには(たとえ正しいことであっても)人は必ず反発してしまうこと、は解説されていました。

 

 

それらを知識として知ってはいても、依然として、自分自身が怒りのままにきれてしまうことは防げていませんでした。

 

 

今回、人が怒るその手前には「この人のこの行為・言動はXXXという意味だ。」という認識のプロセスが必ずある、という着想が新しい気付きでした。

 

 

 

実は、自分が怒りにとらわれているときに「なぜそんなに腹ただしいのか」きちんとしたセンテンスとして、自覚できていないことに気づいたからです。

 

 

 

その怒りの元となっている自分の価値観や自分の思考そのものを「自覚」すれば、それは主張すべき内容なのかどうか、客観的に判断できます。

 

 

 

怒ってしまって、あとになって「そんなこと言える立場でなかった」と反省しても遅いのですから、その瞬間に自分の主張根拠を冷静に見つめれるか、が非常に大切です。

 

 

 

 

道行く人が邪魔であったり、我が子が言う事を聞かなかったり、仕事での出来事だったり、日常でイライラすることはいくらでもあります。

 

 

 

その全ての瞬間で、「これは何に対して、どう思っているから怒りが生じているのかな?」と自問する事で随分と怒りがコントロールできるように感じられました。

 

 

 

本書の中には、怒りの感情そのものはなくせないもの、他人の言動・主義は変えられない、怒りにくい仕組みづくり、、など、他の側面も語られていますが、自分にとっては「怒りは反射反応ではない。怒りの前に必ず認識プロセスがある」この一点が最大の収穫でした。

 

 

 

 

愛するということ エーリッヒ・フロム

1956年の出版。

 

 

愛は技術である、という前提から始まる。

 

 

愛は他人から享受する物ではなくて自らが与えるもの。愛する、という行為は、配慮、責任、尊重、知に基づいている。

 

 

この本を読んで、もっと早くに気づければ、知っていれば、、と思った。

 

 

けれども、こうした人からの愛情を求めるのではなくて、自らが発するものだという考え方自体は、アドラー心理学や東洋哲学にも同じように語られている。

 

 

根本で共通しているのは、人は一人では生きていても幸福になることはできないので、他人との関わり方をどうあるべきか、を考えて、同じ結論になっていること。

 

 

それが50年程前の現代でも、2000年以上前の古代中国でも、同じ結論になっているという事。

 

 

真理は一緒でも、いかに実践が難しいか、ということ。

 

 

本書では、どうしたらそうした姿勢を獲得できるか、私は何をすれば良いか、という答えは用意できない、と述べられている。一方で、そうした姿勢を獲得する為に大事になる考え方、キーワードが最終章愛の修練に語られている。

 

たまに読み返すとよい、とおもった。