これが現象学だ
「現象学」って何なんだろう、と最初におもったのは『センスメイキング』を読んだときでした。
センスメイキングでは、人工知能やビッグデータ"だけ"でイノベーションは起こせない。人にとっての「意味」はすべてものごとのつながり、文脈のなかにあり、それを見いだす能力は「文化の理解」にこそあるんだ、という主張でした。(自分の理解)
そうした文化・文脈理解の達人達のエピソードがいくつも語られている中で、そうした着想、ものの見方のフレームワークとして「現象学」なる哲学がある、と紹介されます。
'例えばグラス一杯のワインとは、いったい何だろうか。フッサールによれば、我々の感覚的経験に対してワインがどのような姿を呈しているか記述しなければならない。・・・フッサールの講義では、日々の生活の中のあらゆる経験(例えば、コンチェルト、雷鳴、不健康)を記述する事が指導されただが、この記述という作業を行き当たりばったりに行ったわけではなかった。対象から抽象的な理論や習慣的に用いられる装置を取り払う事に徹底的に取組んだのだ。'
ただ、『センスメイキング』の中では、現象学がどんな学問でどういう考え方をする物かの記述はあっても、そもそもの実践方法までは読み解けませんでした。(自分の読解のなかでは)
現象学とはどんな思想のものか、そこを突っ込む前にそもそも哲学ってどんな考え方の歴史があるのか全体像をみるために読んだのが『武器になる哲学』。
このなかの第4章「思考」に関するキーコンセプト の中で、エドムント・フッサールの「エポケー」という考えが紹介されています。
'このとき、エポケーとは、先述した「Aを原因として、Bという結果がある」という考え方を「一旦、止める」という点に該当します。簡単に言えば、エポケーとは、「客観的実在をもとに主観的認識が生まれる」という客体→主体の論理構造に「本当にそれで正しいのか」という疑いを差し向けるということ、確かにそのように思えるけれども、一旦それはかっこに入れておこう、ということです。これで、単なる判断留保とエポケーの違いを理解していただけたでしょうか。'
『これが現象学だ』
まだ読み終えていませんが、現象学のものの見方についての解説がありました。
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この「突破する」という見方が、同じ物を見たり経験した人がそれぞれに受け止め方が違っていたり、文化によって意味が違ったりすることと直にリンクしていて、すごいなと思いました。
他人との受け止め方のギャップだったり、文化の違いだったりを認識するのって、その事柄がおきた直後リアルタイムに必ずしも気づけるかというとそうではないと思います(個人差ありますが)
この見方って本当にフレームワークで、事が起きた瞬間に「他の人にはどうとらえられているんだろう」と思いを馳せるようになった気がします。
フッサール自身はそういった他所の見方を知る為に編み出したわけではなくて、もっと学問的な動機のもとにやっていたようですが、この見方を知る事は確かに有益。と思いました。