カンディードまたは最善説
楽観主義の主人公のストーリーと聞いて、事前に想像していた主人公の思考性と実際に読んだところとは、何かイメージと違うものがありました。
この違和感の正体はなんだったのか?
まず、想定していた楽観主義は、物事をはじめる前に「きっとうまく行く」と考え無しに始めてしまう、その点をクローズアップして想定していました。
実際に読み進めてみると、本書の最善説は「物事の目的が一つであるなら、それは最善のためである。そのため、現在の物事のありようは全て最善の状態にある」という考えと読めました。
これから起こることという観点よりも起きたことへの捉え方、であり、最初そこが少しひっかかりになっていました。
でも、「きっとうまく行く」となんでもとらえることと、「起きてしまったことは全て最善である」という考え方は実は同じなのか?という考えが出てきました。
どちらの考えにおいても、自然のもたらす害悪、道徳(=人のふるまい)がもたらす害悪を直視せず、無視しています。
なぜその害悪は起きたのか?どうすればその害悪は取り除けるのか?そういった思考を放棄しています。
害悪の直視の方向が起きたことに向くか、これから起こることに向くかの違いはあれど、世の中の物事のありように帯するスタンスは実は同じではないかと。
カンディードを読んだとき、例えば、彼が人にだまされ人身売買のめにあっても「これは最善のできごとである」と考える様は一見、自分の考える楽観主義とは異なるように思われました。
でも、これから起こることを楽観的に考えることは、実は既に起きたことを無理矢理に最善のことと結びつけて考えることと、害悪の発生メカニズムを無視している、という点で全く同じなのでは?という気がしました。
これから起こることを楽観的に捉えることは良くって、起きたことを楽観的に捉えるのは良くないこと、という区分が成り立つと感じていた自分は、大きな勘違いでした。
カンディードでは最後に、最善説を捨て「自分の田園を耕す」ことが人生の幸福と悟ります。
「自分の田園」が自分にとって何をさすのか、それを自覚し行動する人だけが幸福になれる、そういうことかと思いました。